-はじめに
黒人が感じている社会と政治に対する怒りをラップにした、言わば、社会派ヒップホップの先駆者だ。パブリック・エナミーのメインラッパーである「チャックD」は、パブリック・エナミーの影響により、ブラック・コミュニティーにおいて、「何千人もの指導者が生まれること」を目標としていたそうだ。
パブリック・エナミーが結成されたのは、1980年代初頭である。
当時、チャックDは、ニューヨーク州ロングアイランドにあるアデルファイ大学で、グラフィック・デザインを専攻して通っていた。
チャックDは、ハンク・ショックリーというDJが率いるグループ「スペクトラム・シティ」で、イベントのフライヤー製作を手伝ったり、ラップを披露したりしていた。
■ PUBLIC ENEMYとは
(1)結成
当時、WBAUというラップ専門のラジオ番組があり、ビル・ステファニーがDJホストを務めていた。このビル・ステファニーと、DJのハック・ショックリー、チャックDはつるむようになり、3人でヒップホップについて熱く語っていたという。そして、ビル・ステファニーがラジオで、DJのハック・ショックリーやチャックDらが製作したデモ・テープを流したところ、デフ・ジャム・レコードの共同経営者「リック・ルービン」に見出されたのだ。
リック・ルービンは、早速デフ・ジャム・レコードとの契約の話を持ちかけたが、当初チャックDはあまり乗り気ではなかった。
エンターテイナーになりたくなかったという。
しかし、リック・ルー鬢の説得の上、ようやく応じることとなった。
(2)メンバー
上記にもあるように、ビル・ステファニーと、DJのハック・ショックリー、チャックD、そして、DJターミネーターX、プロフェッサー・グリフ、フレイヴァー・フレイヴを迎え、グループ名は、以前ハンク・ショックリーが作ったトラックに、チャックDがライムを刻んだ「パブリック・エナミー#1」という曲のタイトルを使い、「パブリック・エナミー(社会の敵)」と名乗った。
(3)音楽性
高級車、パーティー、酒、オンナといったお気楽なリリックや世界観が求められていたヒップホップに、ブラック・ムスリム思想を反映した社会派・反体制のステートメントを持ち込んだPEの登場はあまりにも衝撃的で、中流階級の白人たちは明らかに嫌悪感を示したが、"Fight the Power"を合言葉に国境も世代も肌の色も超え、世界中にフォロワーを生んだ。
■ PUBLIC ENEMYと政治
パブリック・エネミーは1980年代ヒップホップ黎明期に政治的/社会的な怒りとメッセージのこもったラップ、キレキレのスクラッチを含む革新的なトラックで、世界に「ラップ・ミュージック」の意義を伝えた功労者だ。2020年現在、ヒップホップ・アクトとしては7組しかいない「ロックの殿堂入り」を果たしたレジェンド(あとはグランドマスター・フラッシュ&フューリアス・ファイブ、ランDMC、
ビースティ・ボーイズ、N.W.A.、2パック、ノトーリアスB.I.G.)。
昨年、プリンスとスパイク・リーの関係についての記事を書いたとき、ヒップホップが広まり始めた80年代に、両者どちらも「(ヒップホップは)よくわからないけれど、パブリック・エネミーは意義があっていい」と発言した事実が出てきた。
つまり、PEはヒップホップが新奇なジャンルだった上の世代やブラック・カルチャーに疎い人々にとって、「納得しやすい」存在であった。
音楽に乗せて、黒人がアメリカ社会においてどのような扱いを受けてきたかを正面切って告発しようとした。リーダーであるチャック・Dはもちろんのこと、結成当初は舞台の振付けを主に担当していたプロフェッサー・グリフにしても、黒人によるイスラム教の団体ネイション・オブ・イスラムの一員としてマイクを向けられれば黒人としての怒りをぶちまけた。攻撃的な言葉の渦と、それにさらに拍車をかけるような激烈なビート。ラップは、パブリック・エナミーの登場によって大きな変貌を遂げ、
さらにアメリカのスラムに暮らす若い黒人、有色人らの意識を変えていった。
■ とりあえずこれを聞け!PUBLIC ENEMYの名盤
Yo! Bum Rush The Show
It Takes A Nation Of Millions To Hold Us Back
Fear Of A Black Planet
Apocalypse 91...The Enemy Strikes Black
Muse Sick-N-Hour Mess Age
He Got Game
■ PUBLIC ENEMYの名曲
・Bring The Noise
・Welcome To The Terrordome
・Can't Truss It
・Don't Believe The Hype
・Burn Hollywood Burn
・Fight The Power
・Rebel Without A Pause
・Public Enemy No. 1
-終わりに
パブリック・エナミーの活動に陰りが見え始めるのは、フレイブの麻薬などのトラブルが表ざたになった92年ころからだった。93年、彼のリハビリのためにグループは活動休止状態に入る。95年、フレイブに実刑判決が下り、チャック・Dがグループからの脱退を発表し、翌96年にはソロ・アルバム『オートバイオグラフィ・オブ・ミスタチャック』を発売する。解散かと思われたが、その後チャック・Dは再びパブリック・エナミーに復帰し、98年にはリー監督の映画『ラストゲーム』のサントラ「ヒー・ガット・ザ・ゲーム」でカムバック。
この年、チャック・Dを中心にして新作をインターネットからダウンロードさせる試みを始めている。